星がよく見える夜に 続編
死んだ同級生の話の続き。
昨日の夜、高校生の頃から付き合っている人と久し振りにあった。約半年ぶりの再会だった。半年ぶりに会っても全然久しぶりな感じもなく、常に一緒にいたかのような不思議な感覚だった。そう、彼女は不思議な人間なのだ。いや、不思議なのは彼女ではなく彼女と私の関係なのかもしれない。
色々なはなしをした。その中で死んだ同級生の話題になった。私は告別式に行けなかったのだが、彼女は出席したらしい。彼女曰く、彼は自殺だったようだ。
自殺の原因は職場での人間関係だったらしい。
自殺に有りがちな理由だなと感じた。
山の中の橋から飛び降りたそうだ。
彼女曰く、その橋は自殺が多い橋らしい。橋の高さの割に手すりがだいぶ低い橋だ。
彼が自殺する1年前に、彼と彼女と、その他数名で居酒屋で酒を飲んだ。その時の彼はよく喋った。雰囲気が変わったと思った。
自殺する人はこの国に年間3万人ほどいるそうだ。単純に1日で100人弱という訳だ。
私はとても臆病な人間だ。漠然と死にたいと思ったことは何回もある。しかし、死ぬのにはとても勇気がいる。私のような臆病な人間にはとても実行できなかった。
しかし、彼は飛んだ。
この事をどう考えるべきなのが。
絶望が彼の背中を押したのだろうか。
何が彼を奮い立たせたのだろうか。
彼に聞いてみれば分かるが、彼は物言わぬ存在になった。彼の気持ちを想像することは出来るが、それしか出来ない。
自殺という選択は正しかったのか?間違いだったのか?。
私は、自殺は絶対にしては行けないだとか、生きていることは奇跡だとか、命を大切にだとか、そう言った事を言うつもりはない。むしろそう言う事を言う人は好きではない。薄っぺらい。なぜ自殺してはいけないのか。その理由を正しく説明出来る人は、きっと、なぜ勉強しないといけないか正しく答えられる先生より少ないと思う。
正しさとは何なのか、私にとってこの世で最も正しいと思うのは、仕事(大工)でよく使う下げ振りの垂直だ。それ以外はあまりあてにならないし、期待しない。目安程度にはなるが。
人間社会の中に、私は正しさを求めない。下げ振りの垂直以上に正しい人間なんていない。
人間は間違う。そのランダムさが人間らしいことだ。機械や道具は間違わない。
私は大工だ。道具は失敗しない。失敗した時は自分が間違えた時であって、道具は私が失敗していても何も言わずに自分の仕事をする。道具は信頼できる。私の腕よりも。
人間は道具ではない。
だから道具よりも正しくない。
パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』という本、銀行型教育。
学校の始まりは児童労働者の教育で確かあっていたはずだ。だいぶ前に読んだから自信はないが。
労働者は搾取される。資本主義社会においては。正確には賃労働者かな?
就活は自分の労働力を買ってくれる会社を探すことだ。会社にとって良い人材とは何か。それは、その人の働きによって得た利益からその人の給料を引いた時点でプラスが多い人だ。
学校の始まりはそういう人材を作るというところに由来している。それは決して過去の話ではなく、今も続いている。
学校は労働者になる訓練所のようなものだろうか。
人間は道具ではないから間違う。しかし、その間違いの中に可能性がつまっている。
何を言いたいのか分からなくなってきた。ಠ_ಠ